事実、0系は出版年の2008年に引退した訳だが、この本では新幹線開業を起点にして、平成の初期までの、著者の鉄道にまつわる思い出を著者の歩みとともに綴っている。
内容は、国鉄から地方私鉄までを簡潔な短文で綴られており2、3時間もあれば読み切れてしまう。
そして、昭和40、50年代のことが多く語られているが、個人的には583系や食堂車の思い出、日中線、鹿児島交通や、瀬戸電の描写が面白かった。
さらに、”581系「有明」では、主張中のある学習誌の編集長と、指定席で偶然隣り合わせとなった。”
とあり、ここから大百科シリーズが生まれた言う。何か、581系の独特な車内の雰囲気と合わせて、
会話の様子が頭に浮かんでくるとは、言い過ぎであろうか。
いずれも、数ページながら心情を交えた端的な描写が創造を掻き立てる。
この「後は読者の皆さんよろしく」感が、百科シリーズにも通じるものだろうか?
タイトル通り、昭和の鉄道の風景をダイジェストで振り帰るには良書である。
なんだこの写真は?
富士急が、南武線並みに混んでるぞ。と思ったら、欅共和国という、けやき坂46のライブイベント後の様子だ。今年は、3日間でのべ、4万5千人の人出だったらしい。
同イベントの鉄道の利用人数は、分からないが、富士急にとってもうれしい悲鳴だろう。私が、当駅を利用したことがあるのは、富士急ハイランドにスケートに行った時のことだ。しかしながら、駅の印象が全くない。富士急のホームページによると、当初は、ハイランド駅として開業した当駅は、日本で初めてのカタカナ名の駅とのこと。
そもそもハイランドは、英語で高原、高地などを意味する。ランドは”国”という意味と掛けていると思うが、そのままだと富士急高原である。なかなか、思い切った名前だ。
私が思い入れのある富士急線内の駅は、葭池(よしいけ)温泉前駅だ。温泉に入る為に行ったのだが、駅は温泉駅の名に似つかわしく無い一面一線の無人駅。降りた瞬間、不安な気持ちになる。周りには人家があるが、人気は無い。駅から5分ほど歩くと鬱蒼とした林の中に温泉があった。
創業安政三年という超老舗だが、ここでも驚かされた。温泉は、着替え場と洗い場に仕切りがないのだ。そして、五人ぐらいで一杯になってしまう浴槽。熱い湯に水位なのか温度なのか忘れてしまったが、自動的に水が足される。また、広く落ち着く座敷は、昔は宿だった事をうかがわせる。
味のある温泉体験に、ぜひオススメである。
話がだいぶ飛んでしまったが、富士急の駅は味わい深い駅多いので、またゆっくり訪ねてみたい路線だ。
本書の中で、私が一番興味があったことは、
鉄道紀行文を文学にまで高めたその流麗なる文章は、どのように生まれてきたのかという点だ。
当本によれば、それは、深夜酒とともに生み出された様である。全ての作品がそうなのかは分からないが、”書斎でちびちびやりなが書いていた”とのこと。
しかし、六十を超えたあたりから、”筆力がおち、酒の力を借りて書くようになった”そして、齢とともにアルコールへの依存が進み、1999年、72歳ごろに 休筆宣言をしている。
例え、才能があろうとも文章を書くということの大変さが分かるエピソードだ。
その他に本書では人間味のある、ちょっと拘り屋のお父さんとしての氏の姿が描かれている。
例えば、子供達から贈られた人形を鞄に入れて旅していたことや、野球好きが奏して、強かった池田高校の校歌を、録音し父娘で暗記したことなど、作品からは窺い知れない、ユーモラスな一面も多く取り上げられている。
何かそこに、氏の文章に時々顔を出す、とぼけた人間味や、几帳面さを感じてしまうのだ。
この様な種類の本は、好き嫌いあるとは思うが、氏の作品の新たな味わい方の添えにいかがだろう。
この駅舎を見て頂きたい。昭和2年の開業当初より使われている建物だ。
著者撮影
この独特の屋根は、建築的にはギャンブレル屋根と言うらしい。近隣の同系の駅舎として東急の田園調布駅があるが、こちらは、マンサード屋根と呼ばれ、形式が異なるそうだ。異国情緒溢れる建物だが、なぜここにあるのだろうか?
鉄道ジャーナル12月号の記事、
木造駅舎の証言によると、この駅舎は、ハワードの田園都市論の影響があると言う。
つまり向ケ丘遊園は田園都市計画の一端を担う予定だったのでは無いかと。真偽のほどは確認が必要だが、こちらも田園調布の開発と同じ思想だ。もっとも田園調布駅の開業は大正13年なので、いくらか、向ケ丘遊園の方が後輩だ。
現在、当駅周辺は、田園調布駅で成功した田園都市構想の印象は、あまり無い。しかし駅舎は現役であり、当時の小田急の拘りをシンボリックに主張している。何か時代錯誤な印象も受けるが、向ケ丘遊園という東京でもなく遊園も無くなり名前だけ残る当地では、却って良いのかも知れない。
15歳の機関助士―戦火をくぐり抜けた汽車と少年 (交通新聞社新書)
さて、このC56だが、北びわこ号の160号がラストナンバーと言われるが。日本の蒸気機関車(ネコパブリッシンング刊)によると、編入機4両を含め164両製造されている。この編入というのが、樺太でC52形を名乗のりその後、C56 161-164に戻された車両だ。この他、雄別鉄道の1001号がある。
160号機をラストナンバーと呼びつつも、歴史に翻弄された4機のことも忘れてはならない。
特に、蒸気機関車(小学館刊)には、”簡易線区用としての優秀機は、軍の眼鏡にかなわぬはずはない。”と書かれている様に、90両もの仲間が、戦地となった、当時の統治地域に転出して行った。
C12同様に万能機を目指した同機は、全溶接ボイラーや後方の見通しを考慮した、スローピングテンダーの採用など画期的な、車両として登場した。
特に、少し角度のついたキャブ前面は、この可愛らしい機関車に少しの力強さを加える程よいアクセントになっている。
均整のとれたボディは、高原のポニーとして人気を博したが、その裏では地味な活躍で日本の簡易路線を支え、海外でも日本のために活躍した当機。この釜の魅力は、そんな両面にあるのかも知れない。
蒸気機関車―日本編 (1981年) (万有ガイド・シリーズ〈12〉)
本書は、私鉄のターミナルの変遷を史実に基づいて紹介したものだ。それは、例えば、”国鉄など先行鉄道との関係”のように、事実情報がテーマごとに書かれているものであって、何故そうなったかといあ点には触れていない。それが、物足りなさを感じさせる。
しかし、最終章の”私鉄ターミナルのゆくえ”では、著者は、洞察のある指摘をしている。”ハード的にはスルー化、ソフト的には多様化が進む”というものだ。
ハード的なスルー化とは、鉄道輸送の量から質への変化、すなわち、直通乗り入れの増加のことであり、ターミナルは、本来の性格を失い、スルーされる存在になるということ。そして、それは、かつての郊外電車と市内電車の直結した形であること。
ソフト的な多様化とは、本書の出版された20005年当時は、隆盛を極めたパスネットを取り上げ、このまま進むと、通勤の行きと帰りで異なる路線を選択できるという多様性に対するニーズが生まれるのではという論である。
ハード的なスルー化は、現在着々と進んでおり、東京近郊のその代表格は、東急であろう。本書でも、著者の弁を代表する形で取り上げられている。すなわち、市内電車の玉川線から地下化工事を経て郊外線になり、その後、半蔵門線に次いで東武に乗り入れスルー化を達成した。
ソフト的な多様化の面では、パスネットに次いでSuica、PASMOの共通利用サービス、そして全国レベルで交通系ICカードの共通利用に発展した。
今では、いずれも著者の論の通りとなった。
さて今後はどうか。
より正確に安全に快適にをモットーに高架化、自動化が進みつつ、
通勤人口の減少による減益、その先に経営統合、合併劇...だろうか?
これによると、小田急は新宿、小田原間の60分運転を目指していたが、時代が変わり、
“2分や3分速くするよりも本数を増やして乗りやすくする、そして快適に乗れる、そういう方向に流れが変わっていたった”とのこだ。
また、保育社発刊の私鉄の車両 小田急編によると、当車両は、“より斬新なスタイル、優れた居住性、(中略)機能性の追求した設計とし、将来の乗客ニーズ十分対応でき、21世紀も通じる車両を目指した。”とある。設計時から、将来ニーズを考慮していることが、後輩のHiSEやRSE以上に活躍できた理由だろうか?
確かに、LSEの車内は、シンプルそのものだ。
ここでいうLuxuryというのは、車窓と一体になる事のように思える。車内の装飾は、素材は良いものを用いながらも最低限に抑え、かつ大窓を採用する事で風景が、車内のインテリアの一部になっているような感覚を、覚える。加えて、連接構造がそれを強調する。連接構造によりデッキがない状態となるため、風景が車両を跨いで、次から次へと飛び込んでくるのだ。
こうした装飾の美とは異なるLuxury感の演出は、次世代のロマンスカーにも受け継がれていると思う。それは、VSE以降のデザイナーとして岡部氏を起用していることからも感じられる。
本系列が、無くなることは非常に寂しいが、今後も、その伝統を引き継いで行って欲しいと願う。
撮影者は、思うところがあったのだろうか?
私は、鉄道の”廃止”という事件に目がない。
最近は、ご無沙汰ではあるが、時間が許せば、その現場になるべく足を運んできた。
そんな人を雑誌ブルータスの鉄道特集では、葬式鉄と呼んでいたが、ただ単に悲しむのではなく、自分の記憶に、そこに存在した物や時間を留めておきたいのだ。
しかし日比谷線のそれは、心にあまり響かなかった。直通運転廃止の理由は、直通先の東横線内ホームドア設置により、日比谷線の18m5ドア車とマッチしないこと、副都心線の乗り入れによるダイヤの過密化という何か、日比谷線が邪魔者扱いされている感じが、嫌な感じがしたのだと思う。
話は代わるが、写真の03系が登場し、初めて遭遇した時の感想は車みたい、だった。内側に傾斜したフロントガラスや、四角いライトが新しいというよりトラックを想起させた。この写真を見て、そんなことを思い出したが、最近登場した13000系もライト周りがフロントグリルを囲む、ホンダの軽自動車にあるようなデザインだ。3000系はどうだったか?マッコウクジラと呼ばれたこの車体は、車とは似つかないワイルドな顔だったと思う。
鉄道車両は、車に比べ長く使われる。
そのデザインも、ロングライフに耐えうるデザインであって欲しいと願う。
さて、Wikipedia
によると、この国包駅の駅舎は”無人駅における簡易な駅舎の設置の嚆矢となった”駅だそうだ。
そのような駅舎のことを、カプセル駅舎と呼ぶそうだ。それは、どのようなものか?
轍のあった道というサイトで、古津駅を例に軽く紹介されている。
それによると、もっともわかりやすい特徴は、窓やドアのサッシにRが付いているという点の様だが、これが見分けの特徴なのか、はっきりとしたことは、分からなかった。
ただ、上図の鉄道建築協会発刊の国鉄建築のあゆみIIには、国包駅は、肥後高田駅や小江駅とともに”不燃性で耐久性のある(中略)現代感覚にデザインされたカプセルタイプの代表例であり”
とある。
という事で、当駅がカプセルであることは間違えなさそうだ。因みに小江駅は、当駅に似た駅舎だが肥後高田は直線的な構成だ。
昭和の50年代に隆盛を極めただろう、カプセル駅舎もかなり老朽化が進んでいるだろうし、この国包駅の駅舎も取り壊されてしまった。
写真の作者は、それを懐かしんでこの写真を撮ったのかも知れない。
この本のタイトルは鉄道地図だが、本の内容は、特に地形的な地図に言及しているわけではない。
むしろ、路線図から日本の鉄道の歴史を総覧した内容だ。
その中でも、戦前、戦中、戦後における政治と鉄道の関係について、短文ながら緻密に鉄道の歴史が
語られる。そうした意味で、歴史をまとめ読みするに適した一冊だ。
以前、小ブログで取り上げた、”やさしい鉄道法規”や、”井上勝: 職掌は唯クロカネの道作に候”が、歴史の中である分野や人物を深く
掘り下げた内容であるのに対し、この本は、それを横通しで繋ぐ役割があるように思う。
例えば、2002年に、鉄道事業法により鉄道の開廃業が届け出制になったが、鉄道法規から見ると
事業者と担当省の負担軽減であるが、本書では、小泉政権化の規制緩和の流れの中で施行された
ものであり、結果として、”地元の合意がなくても、運輸大臣に「退出届」を出せば良くなった”と
本制度を、廃線を増やした”陰の主役”と皮肉る。
事実、”需給調整規制廃止前後における鉄軌道の廃止状況の変化に関する分析”
によれば、2001年の時点で一気に廃止路線が増えている。
本書の端々で、こうした仮説めいた発言が見られるが、著者は単にファンの立場から感情的に
発言しているのではなく、綿密に裏付けを取った上でのことであることが分かる。
おわりにの章で著者は、「日本の近現代を振り返る際の新しい手掛りとしての鉄道」を知るきっかけ
になって欲しいと記している。大げさではあるが、私の個人としては、本書から鉄道の廃止を嘆く
だけでなく、その地域に鉄道とともに確かに存在した文化を振り返ることも大切だと再認識させられた。それだけで一読の価値があったと思う。
この辺りは一帯は東京メトロの神田川橋梁もあり、橋を中心にしたダイナミックな景観を見ることができる。
この辺りと言えば、お茶の水駅周辺の地形は独特だ。神保町からお茶の水駅まで、なだらかに登っていくのだが、そこから一気に神田川で落ち込む。
地図上でみると、神田川は江戸城があった皇居を中心に、外周を囲むように出来ている。明らかに人工的なこの川は、惣構えと呼ばれる防御システムだ。
もともとは、台地だったこの場所に、川を開削することで崖を作り防御した。
その後、まず甲武鉄道(現•中央本線)のお茶の水駅が作られた。その際、景観、道路交通への配慮が求められ、現在の川の縁を縫うように敷設された。そこに、総武線が接続した訳だが、大きな道路に加え彫り込まれた川をまた都合上、高架を伴い橋が連なる現在の形になった。
例えば、運賃と料金がある。運賃は、認可が必要なのは、運賃と特別急行料金、急行料金、座席指定料金であり、その他のものについては、届出制、貨物については自由と決められるそうだ。認可が必要な項目は独占から利用者を守るために設定されている。
という訳で、寝台列車の場合、乗車券、特急券、寝台料金と券が三種類に別れているのだろう。
また、軌道についてほ、軌道法とい法律がある。この中には、いわゆる路面電車の他、モノレールや新交通システムも含まれる。
これらは、その敷設は道路上に行うなど都市計画レベルでの検討が必要であることから、軌道法の管轄に建設省も絡んでいることに起因するようだ。
もっとも現在では、運輸省、建設省もなく国土交通省になっているので、こういった経緯は、過去の歴史となっているがそれを知るのもまた面白い。
そして、鉄道法規で繰り返されることが、鉄道は公益的なものであると言うことだ。
その多くは利用者の立場になって立法されている。
最近、方々で鉄道を私有物と見間違っているファンの方が見受けられるが、鉄道とは、元来、公共物なのだと改めて言いたい。そんなことを感じざる得ない本であった。
ちなみに、本書に掲載された情報は、刊行年の1998年時点のものです。
本車両の第一編成は1960年に落成した。
この頃は、高度成長期の真っ只中にあり、鉄道各社はモータリーゼーションによる鉄道の衰退を
予見し競合する他社との差別化も模索していた。
大手私鉄各社は、単なる輸送手段からの脱却を目指して一歩進んだサービスを展開していった。
鉄道会社にとって車両は、それを体現できる大きな要素である。
そして、このころの国民総所得も、20%の伸びであったり、利用者の暮らしも豊かになりつつあった。
これらの影響もあり、この世代の車両たちは移動という行為に車両を以って価値を上げるべく
どれも特徴的だ。例えば、小田急初代ロマンスカーSE、名鉄7000系パノラマカー、
そして近鉄ビスタカーなどである。いずれも今も形を変え生き残る特急たちだ。
こんな時代背景の中デラックスロマンスカーは生まれたのである。
このデラックスロマンスカーの保存車両は、東武博物館でも見ることができる。
現役当時は、じっくり見ることが出来なかったが、改めて見ると、151系で完成されてしまった
特急の形状を、さらに誇張することで特徴を出そうとする工夫を垣間見る事が出来る。
例えばライト周りは、151系のライトを上下方向に伸ばし、50年代のキャデラックのテールフィンの様な形を採用。このあたりは、国鉄車との差別化はもちろん、日光を利用する外国人を意識しての事だろうか?だとしても、登場年からすると、ちょっとクラシックではないだろうか?
そして、シンボルマーク。こちらも、立体的に縦方向へ引き延ばす事で特徴を出している。
これらが誇張された表現が合間って同車が醸し出す印象は、かなり独特なもので一度見ると忘れられないほどのインパクトがある。
もし、こうした印象を受ける人々が多いのであれば、東武鉄道の狙い通りなのかも知れない。
本書は題名通り、沖縄の県営鉄道跡を歩くという内容だ。島の人々は、同鉄道を親しみを込めてケービンと呼んでいた。
本書の特筆すべき点は、風景描写に留まらず、道すがら出会った人々に積極的に声お掛けながら歩み進めて行く点だ。当時のケービンの姿は、そうした人たちの当時の記憶から、イキイキと蘇ってくる。
特に本書が執筆された、1997年は、戦争で路線が荒廃する前の姿を知っている人たちが、まだ市井に多くあり、線路の線形や日々の姿など貴重な情報に巡り合う確率も高かった様である。
これについて著者は、あとがきで"歩きながら人々に声をかけた。戦前から住んでおられる地元の人か、鉄道のことを知っている方かなと、その人の年齢などを頭で計算しながら声をかけた。"と述べている。
人々の話は本書の中でも素のままで取り上げられており、とても興味深い。
例えば、坂道で失速しそうな時は、機関士が燃え切らない石炭を掻き出し、次から次へと投炭をしていたこと、灰が火種となりたまに火災が起きていたことなど、数値的な記録資料だけでは知ることが難しい話題が掲載されている。
特に機関車の能力が存分に出せなかった点について、別本、図説 沖縄の鉄道 では、"沖縄の水は硬水で機関車の管にカルシウムが付着しやすい"、石炭は"八重山は悪質でカスが多い"と記載されており、運転の苦労を運営側からも知ることができる。因みに、この本は、沖縄の鉄道を史実や資料に沿って、紹介しており読み応えがある。またの機会に紹介したい。
2015年には、県営鉄道設立100周年事業として与那原駅舎軽便資料館が開館した他、ゆいレール展示館にも軽便関連の展示があると言う。
脈々と熱い活動が続いている沖縄県営鉄道。今後も目が離せない状況だと思う。
著者は英文学の研究者だが、この本では研究者的視点に想像力を交え、割りとくだけた文調で書かれている。それが、氏の仮説を程よい距離感で受け入れらる空気を作っている。
肝心の内容だが、先ずは、本のタイトルにもなっている"坊ちゃん"の松山を離れた、その後についての論考だ。
かいつまんで言うと、漱石先生の坊ちゃんでは、"その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。"
と記載されているが、著者は、なぜ技手になったのか?を作家サイド事情から探っている。
それは、漱石先生が一番利用した街鉄、それを、当時、"文明開化の先端を行く市内電車"は、"物理学校出の天才の就職先"としてふさわしいものとして選んだというのが著者の論考である。
このような具合で8編の作品を取り上げている。
その中で私が気になった文章は、著者をして通勤電車小説の元祖と言わしめる田山花袋の少女病に対する論考、"電車は東京市の交通をどのように一変ささたか"と、永井荷風のぼく東綺譚に対する論考、"どうして玉ノ井駅は二つもあったのか"だ。
前者は、田山花袋の他作品で使われた"郊外の人"という言葉から、作家の時代を先行く先見性に注目し、その視点の延長に登場間もない通勤電車を題材にした少女病があるという。
後者は、昔あった京成と東武の玉ノ井について、荷風の趣向や地域性を交え、その歴史と作品に用いられるメタファーを、さりげなく解説してある。
何れにしても、本作では、作家の視点が大事にされており、そこからの仮説立てが面白い。
鉄道好きであれば、文学に登場する鉄道に、それはどうかな?といちいちツッコミを入れた経験は、一度ならずあるだろう。この本は、そんなツッコミをわざわざ調べてくれた痒いところに手が届いた本なのかもしれない。
「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか―日本文学の中の鉄道をめぐる8つの謎
調べてみると、小佐原孝幸さんというデザイナーが、同鉄道の活性化の一環としてデザインしたものだそう。コンセプトは見ての通りの地域の名産、名勝を表意文字の図案として取り入れることで、
アピールするというものだ。
氏曰く
デザインの力が社会に対してできることはまだまだたくさんあります。(中略)地域の魅力は地元の人にとっては「当たり前」で、気づいていないことも多く、外部の人間のほうが魅力に気づくということもあります。そう考えると、ひたちなか市に縁もゆかりもない自分が関わった事にも意味があったのかなと思います。とのこと。
引用元 Creator' Station より
実際、写真の駅名標からも当地の名物を読み取ることができるし、2015年のGマーク受賞など、メディアへの露出により、同鉄道の知名度アップへも貢献しているだろう。
私は、どちらかと言うと乗り鉄だが、駅名標は、乗り鉄にとって車両とともに路線の変化を感じる大切な情報だ。見慣れぬ駅名標からは遠くに来たと実感し、お馴染みのそれを目にすると安心感が湧いてくる。ともあれ、ついつい見てしまうのが、この駅名標だ。
以前は、それを利用した看板もよく見られた。個人的に頭をよぎるのは、縦書きのホーロー板の下の、"本場の味 サッポロビール"の看板である。これを見ると、あぁ、北海道に来たのだと実感できる。
苫小牧にて、撮影著者。
それから、最近気になっているのが、日豊本線の宇佐駅の駅名標だ。
宇佐は、ローマ字表記でUSA。それを利用したアメリカ国旗を模した名勝案内図。しかも、積極的に宣伝しないところが、感じ入る。
参考 ねとらぼの記事
ひたちなか海浜鉄道の様に、分かりやすいのも良いけど、個人的には宇佐駅の様に、ちょと仕込んである方が好みというのは、ネタを喜ぶ鉄道好きの性であろうか?
しかし、本の執筆にあたり各線の乗り直しを行うことで、"実に数多くの要因によって、それぞれの線区の印象がちがうこと"に、改めて気がついた。
そして、"四季折り折り七色に装いをかえる多彩な国土を恐れぬ、不遜な感懐であった"
と自らを諭し、四季折々の鉄道旅の風情を取り上げたのがこの本だ。
昭和54年に発刊した当本の内容は、現在からすると、当然のごとく古い。しかし、昭和生まれの私からすれば、著者の観察眼と文章のリズムから当時の様子が生き生きと伝わってくる。また、ページの端々に話題に関する路線図が掲載されていて、現代との比較に事欠かない。当時は、清水港線など盲腸線がまだまだ健在で、羨ましくも、楽しくも読める。
文書表現は、ちょっと諧謔的な表現もあるが、これは百間先生からの鉄道紀行文の伝統と思えば良いのではなかろうか。
そんな中、個人的に文中の著者の言葉に目から鱗ともいうべきものがあった。
"移動のための手段である限り交通機関は「文明」でしかない。それに対し、手段を目的に置き換えることによって汽車や船が「文化」へと昇華してくる"
鉄道趣味は文化である。私たちは文化の担い手である。おこがましくもそう考えれば、散財し時間も浪費をして家人に目をつけられようとも、少しは救われるのではないだろうか。