大衆文学を超えた鉄道文学 獅子文六の世界 [鉄道本]
獅子文六全集 第九巻
装幀は、芹沢金圭介氏。
本としても観賞できる美しい全集だ。
今回、この巻を取り上げたい訳は、
鉄道に関する作品が二編も収めらているからである。
一つ目は、箱根山。
もう一つは、七時間半である。
両者とも、先達達の好書評が数多くあるので、それに譲りたいが概要のみ触れると、箱根山は、1950年代のリゾート開発合戦である箱根山戦争を題材にした話だ。
当時、西武鉄道と小田急の争いがあり、そこに藤田観光も参戦して、一大開発戦争になった様だ。
もう一つの七時間半は、東海道本線特急全盛期、すなわち、つばめ、はとが活躍した時代の話である。車内外で繰り広げられる乗員、乗客、はたまた、沿線の人々も巻き込んだ喜劇だ。
どちらも世相と鉄道、鉄道会社と、そこに存在した人々の関係を、綿密な取材を元に描かれる。
何よりも、著者自身の鉄道に対する興味が、ひしひしと感じられる読み物だ。
個人的には、読書好き鉄道好きの双方が楽しめる名作と思う。
近年、七時間半は、文庫本が出て居る様なので、ぜひの一読をお勧めします。
湯布院駅 の 線形の妙 [JITOZU_施設]
参照マップ
この写真は、由布院駅におけるキハ71系であろう。撮影は6月の様である。梅雨時期の由布院といった具合だろうか?雨の感じが、よく出ている。
もう一つ、私が気になったことは、地図上の九大本線の姿である。
そのまま、由布院を通らず直進した方が早いのでは?と思うが、ここで、わざわざ迂回している。地形のためかな?と思ったが、どうも違うらしい。
Yufuin Styleというサイトによると、当初、直進する予定が、地元の意向を受けた名士が計画変更させ、現在に至るとのこと。
その経緯は、上記サイトに詳しい。
そして、彼の地の名は今は、由布市たそうだ。かつては湯布院町で、駅名と温泉名は由布院という文字を使ってたそうな。
湯布院は、由布院町と湯平村の合併により誕生し、湯になったのだとか。なかなか面白い歴史がありそうな土地である。
ちなみに、参考サイトで参照している本、大分の鉄道。ちょっと気になります。。
近所では、手に入らなそうなところが、またそそられます。
キハ40 系列の旅情感 [JITOZU_車両]
参照マップ
写真は、筑豊本線 藤ノ木駅における、キハ47の車内の様だ。運転士さんと思しき背中、クロスシート、そしてフィルムカメラを思わせるボケ感、色合いとキハらしさを感じてしまう一枚だ。
が運行され始めている。
時代的には正しい方向だし、毎日利用する地元の方々にとっては、ちょっとした乗り心地も疲れに影響するので、歓迎すべきことと思う。
しかし、キハ40系列で旅情を知ってしまうと、ちょっと寂しいものである。
さて、このキハだが、写真をよく見て見ると9042だと分かる。こうなってくると、その歴史が気になるが、調べるとすぐに判明した。
生き残るキハ40系列を見ていると、大抵、改造を受けていてある意味、古いモノを大切にする究極の姿と感じてしまうのは、鉄道ファンのエゴだろうか?
登場からの年数も気になるが、もう少し、活躍して欲しいと思います。
旧成田空港駅 の虚無感? [JITOZU_施設]
画像は、京成電鉄東成田周辺の様子である
以前、当ブログで成田新幹線計画を取り上げたことがあった。
その中では触れなかったが、
成田新幹線の影響で誕生したのが
現在は、東成田駅となっている
京成電鉄、旧成田空港駅とのことだそうだ。
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当時、国としては成田新幹線の敷設は、
京成のそれに比べ優先度が高かったため、
京成のターミナル直下の駅を認めなかったそうだ。
こうして、第1、第2の両ターミナル間という
使い勝手の悪い立地に、京成の成田空港駅が
作られたのである。それが、現在の東成田駅である。
その後、新幹線計画が破棄され、晴れて京成の空港直下駅が誕生したのだ。
と同時に旧成田空港駅は、廃駅にならずに
東成田駅となった。
今回、現在は東成田駅となっている
同駅を尋ねてみた。行ってみての驚きは、往時の空港駅としての面影を強く残す駅で
あったことである。
特に、閑散とした広い空間は、
行ったことはないけれど、旧共産圏の地下鉄の駅の様な空虚感がある。
あらゆるものが、当時の姿もそのままで、
まさか無いとは思うが、京成の虚無感の
意思表示を感じてしまう。
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とは言え、残された設備、広告や什器類は初期90年代を知るための数少ない資料なので、叶うことなら、このまま、そっとして
おいてはいかがでしょうか?
ムーライトながら と 臨時快速大垣 行き [JITOZU_車両]
参照マップ
この写真は、大垣駅における、上りムーンライトながらの様だ。写真が撮られた当時は、まだ定期列車で、車両も特急用の373系という豪華な設であった。
というのも同時期に、季節によっては、臨時快速大垣行きが走っており、こちらは、165系で運行されていた。
私も何度か、この快速に乗車したが、全車指定のムーンライトに比べ、全車自由の当快速は、発車の2時間前から並ばないといけなかった。列車に乗るために長時間並ぶ。この事自体が昭和の鉄道感である。それに加えてボックスシートの座席が昭和の夜行旅を演出していたが、寝るには厳しい状態だった。
そして、シートを確保できなかった強者の中には、新聞を敷いて床寝する輩も居たのである。
という事で、先に発車するながらの乗客の余裕ぶりを尻目に、ギチギチの車内で車両の味わいを楽しむ他無かったのである。
因みに、373系のながらにも乗車したことがあるが、当然、座席は素晴らしいかった。しかし、373系はデッキがないため扉が開閉する度に気になり、なかなか寝付けなかった。やっぱり、デッキは、大切だなあと思った瞬間である。
現在、ながらは、臨時快速化して185系で運行中だ。こちらは非ボックスシートかつ、デッキ付きのため、個人的には快適そのものと感じてしまうが、実際にはどうなのか。乗車して検証する必要がありそうだ。
ながらについては、このサイトも面白かったので、リンクを貼っておきます。